ツキノワグマ「ノビタ(20才)」は体長150cm、体重130kgの大きな逞しいオスです。
大きな体のノビタは約10年前(2018年現在)より両眼が白内障になってしまい、ほぼ失明状態になっていました。
白内障とは眼の中の構造である水晶体が白く濁ってしまう病気です。白く濁った水晶体は光を眼の奥までしっかりと通さないため、明るさは感じているものの物や色の識別はほとんどできない状態でした。
飼育員や餌も匂いのみで探している状況で、部屋の遊び道具も同じところにある同じものしか利用できていませんでした。段差などの高低差は目が見えないノビタにとってはとても危険で、つまずいたり、落ちたりしてケガの原因になってしまいます。また、ノビタは自分の部屋に帰ってくることが難しくなるため広い放飼場へ出すことも難しい状況になっていました。
しかし、まだ20才のノビタは寿命まで少なくとも5年以上はあります。
白内障は身近な動物である犬や猫では手術で治癒する可能性のある病気ですが、白内障は死ぬ病気ではないので、生きるためだけであれば手術の必要はありません。しかし、これからも「見えない生活」のまま活動の選択肢を狭めた状態で過ごしてもらうのか、それとも移動や麻酔、手術など様々なリスクを負いながらも「見える生活」という活動的なノビタの生活に向けて手術に挑戦するべきか難しい判断を話し合いました。
そして、のぼりべつクマ牧場ではノビタの生活の質(QOL; Quality of life)向上を図るため、酪農学園大学の全面的な協力を得て白内障手術をすることに踏み切りました。
ノビタの白内障手術に向けて
2018年4月20日にのぼりべつクマ牧場にて酪農学園大学付属動物医療センターの前原誠也准教授(眼科専門)の最終的な眼科検査を麻酔下にて行い、水晶体を除去する手術をすれば視力が回復する可能性が高いという最終診断が下され、ノビタの手術計画が本格始動しました。
白内障手術を成功させるにあたっては想定された大きな3つの課題がありました。それは①移送手段、②手術、③術後管理です。
移送手段
「移送手段」についてはのぼりべつクマ牧場ならではの課題でした。
のぼりべつクマ牧場に来場されたお客様は山麓にある窓口で入場券を購入した後、ロープウェイによる約7分間の空中散歩をお楽しみ頂き、山頂のクマ牧場に到着します。そして、実はこのロープウェイが山頂と山麓を行き来する唯一の交通手段なのです。車が通れる道路はありません。
そんな中、ノビタを山麓まで移動させる選択肢として上がったのは、ヘリコプターか、ロープウェイか、はたまた諦めるかでした。
ここで力を発揮してくださったのはロープウェイの専門スタッフでした。なんと、ロープウェイでクマを移送できるロープウェイ脱着型移送オリをオーダーメイドで製造したのです。大人のクマの移送が困難だった現状をこのオーダーメイドのオリで克服したのです。
手術
次の課題は「手術」でした。
長時間が予想される麻酔にノビタが耐えられるか。手術中は眼が絶対に、僅かでも、一瞬でも動いてはいけないという条件の中で、麻酔を安定してかけられるのか。獣医学的な報告が世界的にもないクマの白内障手術は未知の領域で、予測不能な自体が多数起こることが想定されていました。
しかし、これらのことは酪農学園大学付属動物医療センターの経験豊富な麻酔専門チームと白内障手術の専門獣医師である前原誠也准教授の強力なチームワークで克服されました。
2018年7月6日の手術当日、夜が明ける前にノビタとのぼりべつクマ牧場のスタッフは酪農学園大学に到着していました。
匂いがいつもと違うことを感じて、ノビタはしきりにクンクンと輸送オリの中を嗅ぎまわっていました。正午、手術の準備が完了するとまず初めに輸送オリの中のノビタに吹き矢を打って麻酔注射薬で眠らせたあと、手術中は酪農学園大学の麻酔専門チームによって徐々に麻酔ガスの吸入麻酔に切り換えられました。こうすることで安全に麻酔を管理でき、さらに長時間の麻酔でも安定した状態が得られます。
眼の手術中は想定通り予測不能な事態が多数発生しました。その中の1つが眼の大きさです。
ツキノワグマの眼は小型犬よりも小さく、準備していた犬用人工レンズはどれも挿入することができませんでした。また、白濁した水晶体も他の動物に比べて硬かったため、超音波で水晶体を削る処置も難易度が高くなりました。さらに水晶体を覆っている膜も身近な動物の中で最も薄く処置の難易度はさらに高いものになりました。
しかし、白内障手術の経験が豊富な前原准教授の手にかかると、それらの課題は確実に克服されていき、4時間という大手術を終えたノビタの眼には白い水晶体がなくなっていて、ついに光を眼の奥まで通せる透き通った眼をしていました。
その後、麻酔も無事に覚めましたが、既に夜になり日が沈んでいたためノビタは少し興奮しながらも見えているのかどうかまだ分からないような感じでキョロキョロしているような仕草がみられました。
術後管理
最後の課題は「術後管理」です。
手術翌日からは術後管理への挑戦が始まります。手術が無事に成功しても手術後も全く気は抜けません。
白内障手術は眼の中を直接的に処置するため、手術後に眼の炎症が発生してしまう手術合併症のリスクがあるのです。その炎症をうまく管理できなければ失明してしまうこともあります。さらに、クマにおいては今までに白内障手術の獣医学的な情報が海外にもないため、術後管理の方法は手探りでした。眼帯や目薬も高頻度で実施するのは難しく、クマ流の管理をしなければなりません。
今回は前原准教授と相談しながら、複数の飲み薬で痛みや炎症を管理することを試みました。飲み薬は大好物のリンゴや手作りニンジンジュースに混ぜてあげました。飲み薬の量は食欲や眼の状態を観察しながら調整していきました。
手術翌日は平常時の瞬き頻度が増えていたり、少し痛みを感じているのか前肢で眼の付近をかいたりするような仕草がみられたため、飲み薬の量を調整するとそのようなことは見られなくなりました。毎日調整しながら1か月間の飲み薬による管理を終え、無事に飲み薬を切ることができました。
今回の手術ではノビタは水晶体を除去しているので水晶体の役割である焦点の調整ができません。つまり遠視(遠くが見えて、近くはぼんやり)の状態になっていると考えられました。それでも真っ白な世界から、遠視でもモノの区別がつく刺激的な世界になった手術後のノビタの様子は劇的な変化がありました。
見える生活へのリハビリ
まず初日は、見えていることに驚いたのかいつも出入りしている自分の部屋からも出てこなくなってしまいました。約10年間の見えない生活から急に見える生活になり、見えるものへの警戒心が出ていたようでした。
この日からノビタのペースに合わせた「見える生活」へのリハビリが始まりました。
ノビタが部屋から出たいような仕草をみせたら放飼場に出し、自由に歩かせ、餌を置いて見えているのか確認しながらケアを継続していきました。日が経つごとにノビタの警戒心は薄れ、だんだん飼育員を目で追ったり、餌をすぐに見つけて前肢でかき寄せたり、日中は外の景色を眺めていたりと見えているのではないかと思う行動が日に日に増えていきました。
手術後に飲み薬で痛みや患部の炎症を管理し、手術合併症のリスクが高いと言われる期間を無事に乗り切り、ついに2018年11月4日、手術後初めて試験的にクマ山ステージ放飼場に放飼しました。2名の飼育員のみが見守るいつもと違う静かなクマ山ステージ放飼場でしたが、ノビタは自力でスロープを登り、ステージへ向かって上がっていきました。おそるおそる入り口から顔を出しキョロキョロしながらゆっくりと進み、ついにクマ山ステージ放飼場に到着しました。
ノビタは15年ぶりのクマ山ステージ放飼場でしたので、懐かしい感じなのか、新天地なのか、おそるおそる一歩ずつ歩いていましたが、飼育員が扉をバタンッと閉めた音に驚いて、びっくりした様子で部屋に帰っていきました。
また、11月7日には報道陣を目の前にして2回目のクマ山ステージ放飼場での放飼を行いました。報道陣が見守る中、クマ山ステージ放飼場の出入口から大きな黒い耳を出し、少し眼を出すと報道陣を見つけるや否やすぐに顔を引っ込め、また少し時間が経つと顔を出し、また引っ込めを何回か繰り返した後、報道陣の前でノビタの目の前にある放飼場の餌を前肢でかき寄せてパクリと食べました。
その後、下半身は出入口に残したまま、2、3回上半身を出たり引っ込んだりを繰り返した後、ついに全身を報道陣に見せてくれました。見えているせいか、緊張した面持ちでウロウロとし始め、報道陣に興奮したのか、後半はウロウロが激しくなり、なかなか帰らなくなってしまいましたが、餌を用いた誘導によって落ち着き、自力で部屋に帰ってくれました。
無事に手術を終え視力の回復を見せてくれているノビタは、クマの白内障の治療方針の選択肢として外科的な処置も可能となったことを証明してくれました。
ノビタとクマ牧場の挑戦
のぼりべつクマ牧場で飼育されているすべての動物は、生きるだけでなく生きている間の「生活の質の向上」を目指します。
このことが、今の時代の動物園、水族館に求められている姿だと考えています。ノビタはそういったことを飼育員に身をもって教えてくれた大切な仲間です。
 
※2020年6月18日9時、ツキノワグマの「ノビタ」が享年22才で息を引き取りました。
詳細はこちらのお知らせをご確認ください。